ブーイング・ロマン

8月17日の火曜日、ヤンキースは今季初めてミネソタ・ツインズと戦った。そのとき松井秀喜の最初の打席で、ブーイングが起こったそうだ。
アメリカンリーグで東地区首位のヤンキースと、中地区首位のツインズは、ワールドシリーズを目指すポストシーズンで戦う可能性が高い。今季初対決のその試合で5番に入っていた松井は、A・ロッドが出場停止のため、年齢による衰えが見えてきたバーニー・ウィリアムスが4番を打たなければならない状況では、確かに3番のシェーフィールドと並び、最も警戒すべきバッターであった。
そのため初打席から、松井にブーイングが浴びせられるのにも、一応の合点はいく。だがブーイングが起きた理由は、それだけではないはずだ。
ミソネタのファンの頭の中には、昨年のポストシーズンでの松井の記憶が、残っていただろう。


昨年のツインズとのディビジョンシリーズ(ポストシーズンの初戦。ワールドシリーズを決勝とするなら、準々決勝に当たる)では、松井は15打数6安打(打率.266,3打点)とシーズン通しては、大きな活躍はしてない。ただ松井は3試合目に、先制のツーランを右翼にたたきこんでいる。それを決勝点にチームは勝利し、アンキースは2勝目をもぎとった。翌試合ではヤンキースは大量点を奪い楽勝、3勝1敗で次のステップへ進んだ。
この松井のホームランの印象を最も端的に表しているのは、次の2人の言葉だと思う。
「松井の1発が観客を黙らせてくれた」(ヤンキース先発のクレメンス)。
「敗因?松井の1発に尽きるよ」(ツインズ攻守のリーダーであるハンター)。


正直、うらやましいと思った。アメリカの球場でブーイングされるということは、「イヤな奴=自分たちのチームの脅威となる奴」という、実力と存在を認められた証明になる。実力のない奴は嫌わられもしないが、相手にもされない。それどころか、時には相手チームへのボーナスになってしまう。
頼まなくてもアウトを増やしてくれる。エラーをしてくれる。ヒットを与え、得点を許してくれる。およそスポーツをわずかでもプレーしたことがある人ならば、そしてその時に活躍したいと少しでも望んだ人ならば、自分がそんな存在になってしまうことが、どんなに耐えがたいことかは、容易に想像がつくだろう。
17日の松井はツインズファンにとって、そんな存在とは全く逆な存在だっだ。このブーイングが示していることは、これで松井は本物のメジャーリーガー(マイナーリーグを行ったり来たりする選手ではなく、チームに不可欠な本当のプロだ)になるだろう、あるいはもうなったということだった。
それは嬉しいことだったけれども、同時にそのブーイングには、一人の男として嫉妬ではない純粋な羨望を感じた。もし私が少年だったら羨望と同時に、松井にきっと憧れたことだろう。
ハードボイルド小説が男たちのオトギバナシになるのに不可欠なのは、実は魅力的な悪女ではなく、主人公を肯定する魅力的な男性で、その男性は敵であっても、味方であっても構わないと言ったのは沢木耕太郎氏だが、今回の松井のブーイングには、まさにその「男が男を知る」という匂いを感じた。そこに私は魅かれ、羨望を感じたのだ。
そのブーイングが、日本人初のMLBスラッガーとしての松井に贈られたことには喜びを、一人の男として送られたことにはうらやましさを感じたのだ。


ちょっと気は早いが、幸運にも松井がこれからもブーイングを、毎年浴びせ続けられることができたなら、彼が引退する間際には、敵のファンから贈られるのはブーイングではなく、拍手に変わっているかもしれない。
なぜなら長年ブーイングを浴びせられるぐらいの活躍ができる選手ならば、きっとその選手生命を終える頃には、レジェンドのページに入ることが許される選手になっているからだ。
野球ファンは知っている。どうして野球が素晴らしいかを。どうして語るに値するスポーツであるかを。
この150年間に野球の世界には、偉大な選手たちが現れ、語り継ぐのに相応しい行動を見せ、そして現在もそういう選手は存在し、これからもそういう選手は存在していく。
その連綿と続く歴史、それこそが野球の財産なのだ。決してベーブ・ルースだけが、A・ロッドだけが、ボンズだけが野球の素晴らしさの全てではない!素晴らしいのは彼らを生み出す世界があるということなのだ。
だから世界の新しい1ページになった選手、そういう選手への賞賛は敵味方を超えたものになる。
例えば昨年のワールドシリーズ第4戦で引退を決めたクレメンスが、その降板時にまだ試合中にも関わらず、相手チーム・マーリンズの選手全員が、敵地にも関わらずフロリダの球場全体が、彼に拍手を贈ったように。彼もまた多くのブーイングを(だが、それ以上の賞賛を)浴びた選手だった。
そのような存在に松井がなるには、まだあと10年は活躍しなければならない。そしてなれるかどうかは今の時点では全く予想できない。だが、ブーインの陰にはそういうボーナスが隠れていることを思うと、ブーイングもそう悪いものじゃない。