ジーターに逢えたら

今日行われた(現地時間では昨日25日)ヤンキース対インディアンス戦の試合前に、ひとつとても興味を引かれる光景があった。
メジャーリーグでは試合前の練習を一時間ほどですますと、選手たちはクラブハウスに戻っていくのだが、その前にフェンスに近寄って、彼らを待っているファンのために、5分ほどサインボールをする習慣がある。今日その中でジーターにサインをもらった、あるローティーンの白人の女の子が、あまりの嬉しさで泣き出しているシーンがあった。
今日の球場はニューヨークではない。敵地クリーブランドにも関わらず、である。


だが実はこれは驚くことではない。ヤンキースのファンは全米にいて、敵地ながらヤンキースファンの声援の方が、ホームチームの声援を上回ることはまれではない。このジェイコブス・フィールドでの3連戦でも、その前のレンジャースの本拠地アーリントンでの3連戦も、地元チームのファンの数より、ヤンキースのファンの方が勝っていた。日本の野球のように1塁側席(ホームチーム)、3塁側(アウェイチーム)という概念がなく、球場にいるほとんどの人間が味方、そしてアウェイでは敵とはっきり分かれているメジャーリーグではとても珍しいことに、ヤンキースのファンは全米各地にいる。


では、その中で一番の人気があるのは誰か。伝説を書き換えられる可能性を持ち、人格でも卓抜したものを持つ、ナイスガイのA・ロッド(ロドリゲス)だろうか。実績と将来性に関して彼以上の選手は、ヤンキースベンチのどこを探してもいない。
だが違うのだ。全米のどの球場に行っても、ヤンキースでもっとも人気があるのは、数字上の成績ではA・ロッドに決してかなわないジーターなのだ。
ジーターがチーム内で、劣っている選手はA・ロッドだけではない。パワーではシェーフィールドや松井秀喜に劣り、打点でも100打点を記録したことは一度しかない(松井はルーキーシーズンの昨年にクリア)。打率では平均すれば3割1分強だが、首位打者をとる実力ではないし、走力も年間25盗塁前後。守備でもA・ロッドに2年続けて、ゴールド・グラブ賞を奪われた。
要するに彼にはずば抜けたものが一つもないのだ。彼がこれまでのキャリアの中でもらったタイトルは、2000年のオールスターとワールドシリーズのタイトルだけだ。そしてこれからも彼は、打撃タイトルをとることは、まずないだろう。
だがそのジーターは、タイトルをとったことがない選手の方が少ない、ヤンキースでキャプテンを務め、そしてヤンキースのフロントは、レンジャースのオーナーがかつて盲目的に年俸をつりあげてしまったA・ロッドを除けば、野手の中で最高額を彼には支払っている。
どうしてナンバー1どころかナンバー2でも、3でもない成績の選手にヤンキースは、高額の年俸を支払っているのだろうか。


その答えになるものは、例えば昨日(24日。現地時間のおととい)の試合にあるのかもしれない。9回表までインディアンスに同点とされていたヤンキースは、その回に出塁したジーターが2盗、3盗を決めた後、松井のタイムリーで生還し、それがヤンキースの勝利点になった。
この日の試合のあとヤンキースのトーレ監督は、松井を褒める以上に会見ではジーターについてコメントの時間を割いた。それはジーターが前日の試合で、左ヒジに死球を受けて退場しており、その日の出場も試合前には危ぶまれていたのに、そのことを全く感じさせない活躍だったからだ。
ジーターのバッティングスタイルは、ホームベースにのしかかるように打っていくので、死球も一番痛い、というよりか鍛えようがなくもっとも弱いヒジの部分にぶつかっている。それでも試合の終盤に彼はハッスルした。指揮官はもちろんこれを知っていた。
別に彼は、体がバカみたいに丈夫な選手なわけではない。
昨年のワールドシリーズでは指の腱を切っていながら(シリーズ後、即手術室行き)、プレーし、自身もエラーも記録したが、全てが終わったあとチーム最年少の男は、「このチームにはまだ経験がたりないね」と言い放った。事実シリーズで相手の投手たちを、疑心暗鬼に追い込む一打をもっとも食らわせたのは、彼だった。
今年7月2日のレッドソックスとの試合では、延長戦でファールフライを追いかけてフルスピードでスタンドに突っ込み、血を流しながらもボールを離さなかった。その試合は結局ヤンキースが勝った。


このようなシーンを見てきて思うのは、彼がハッスルするシーンというのは必ず勝利の流れを、手繰り寄せるポイントであるということだ。それはパリーグの外人選手が消化試合で、最終的に帳尻を合わせるために打つホームランとは正反対の意味を持つ。
言い換えれば彼は、10−0の試合ではさほど脅威を与えない選手だが、1−0.あるいは2−1で負けているときの試合では誰よりも怖いバッターである。
彼ほどどうでもいい時に打たなくて、どうでもよくない時に打つバッターは珍しい。
「大舞台に強い男」という形容が彼に冠されるのもそのためだ。どうでもいい大舞台など、大舞台ではない。


だからヤンキースが、ジーターをキャプテンに任命し、最高額の報酬を与えるのもよくわかる。チームの苦境の時、いつも相手チームのどてっ腹をこじ開けるドリル役になるのは、大抵彼だからだ。
ニューーヨークのマスコミからも、ジーターの方が、A・ロッドよりチームには重要な選手だということがちらほらと報道されてきているようだが、それも妥当なところだろう。数字を残してくれるのはA・ロッドで、勝利を残してくれるのはジーターなのだから。
ヤンキースの中で、ジーターが一番人気があるというのは、結局そういう「あいつは、必ず何かやってくれる」という信頼なのだと僕は思っている。
そしてまたジーターが好きだという人は、野球の勘所をよく知っている人ではないか、とも思う。なぜならジーターが、活躍する場面というのは、ほとんど勝負の分かれ目になるターニングポイントで、そのシーンを見ることを重ねた人が、野球の本質を理解してしまうことは想像に難くないからだ。


誰かに会うことで涙を流すということは、ある人の人生の中で、その誰かがとても大きな位置を占めている時間があったということだろう。別にそれが身近な人間ではなく、いわゆるスターのような映像でしか知らない人間でも、心の中にしめた位置の大きさは、時に変わらない。
冒頭で紹介した女の子、彼女にとってジーターは特別な人間だったのだろう。そして、ジーターが好きということ、それは野球が好きということではないかとも思う。
何度も言ってしまいしつこいが、それはジーターのプレーが野球の勝利に直結していることが多いからだ。
長々と書いたが、結局何を言いたいかというと、ぼくはジーターにサインボールをもらい、泣いてしまった女の子が好きだということだ。
なぜなら、もう言う必要もないかもしれない。その女の子は、きっと野球も愛していてくれるからだ。


もし、そうでなかったにしても、彼女は大人になった時、きっと自分の子供たちに自分がとても若い頃にジーターに夢中だったことを、ジーターの素晴らしさを話してくれるだろう。
それで十分だ。
アメリカでも、ひいきのチームはたいてい、親から受け継ぐ。