4月15日はジャッキー・ロビンソン・デイ

もう過ぎてしまったが4月15日を今年から、「ジャッキー・ロビンソン・デイ」にすることを、先月にセリグメジャーリーグコミッショナーが発表した。これは初の黒人メジャーリーガーであるジャッキー・ロビンソンがデビューした日が、1947年の4月15日だったことに由来する。
すでにデビュー50周年の97年には、彼の不滅の功績をたたえ、全てのチームで背番号「42」を永久欠番にしている。(ただし特例として、そのとき「42」をつけていたヤンキース・リベラのような選手は使用を認めれらた。)


ロビンソンをメジャーリーグの世界に引き込んだ人物は、当時ブルックリン・ドジャースの会長をつとめていたブランチ・リッキーであった。彼が黒人選手への壁を壊そうと考えることになったきっかけは、1910年の晩にまでさかのぼる。
当時オハイオ州ウェズリヤン大学の野球コーチをしていたリッキーは、選手たちを連れ、インディアナ州ウスベントというところに遠征に出かけていた。
彼のチームにはトーマスというたった一人の黒人選手がいたのだが、ホテルに着くと黒人という理由でトーマスだけは宿泊を拒否されてしまう。リッキーはホテルにかけあい、自分の部屋に臨時のベットを運び一緒の部屋に泊まるからという理由で、なんとかトーマスの宿泊許可をもらう。
その晩トーマスはベットの上に座ると、長い間黙っていたが、突如泣きだした。そして泣きながら、非常に激しく自分の手をまるで皮膚をはごうとするかのようにかきむしりだした。
その理由をリッキーが驚いて聞くと、彼は嗚咽しながらこう言ったという。
「この手です。この黒い手なんです。手が白ければ、私だってみんなと同じようにやれるんです。ねえ、そうでしょう。リッキーさん。白くさえあったら、、、」
その晩からリッキーは、黒人選手の苦悩を忘れることができなくなった。
そして1943年にドジャースの会長になったリッキーは、とうとう野球においても白人と黒人が平等にする時期が来たと判断し、その先駆者にふさわしい人物を探し始める。その捜索範囲は米国内だけに限らずキューバ、メキシコ、プエルトリコベネズエラなど肌の黒い人種が住んでいるとみられる全ての国々に及んだ。
45年にとうとう彼は、それにふさわしい人物、すなわち野球の能力が高いだけでなく、どんな無慈悲な迫害にも耐え抜けながら報復を一切しない、だが決してへり下らずに毅然としているいられる人間を見つける。それがロビンソンだった。
リッキーから初めてメジャーリーグ入りの要請を聞いたとき、ロビンソンは、
「リッキーさん、(結局)あなたは仕返しするのが怖いような、黒人を探しているのですか?」
という質問をした。そして次の瞬間に、ロビンソンは生涯忘れられないことになった言葉を聞くことになる。
「ロビンソン君、わたしは仕返しをしないでいられるだけの勇気を持っている選手を探しているのだよ」


ロビンソンは、黒人選手として初のメジャーリーグ入りの挑戦を決意した。46年にまずはドジャース傘下のファームだったモントリオール・ロイヤルズに入団。だが、初めから戦いはプロ野球選手ゆえではなく、黒人ゆえの差別をうけることから始まった。
キャンプ地のフロリダへ行こうと新妻と空港に行ってみると、出発時間は遅れたと告げられながらも飛行機は彼らを置いて出発。結局次の便まで12時間待たなければならないのだったが、空港のレストランやホテルから全ての黒人はしめだされてしまう。やっと飛行機にのったと思ったら、燃料捕球のために着陸した別の空港で、白人夫婦に席を譲るために問答無用でロビンソン夫婦は降ろされる。
仕方がないので長距離バスでフロリダへ向かおうとすれば、人が一杯にあふれた粗末な黒人専用席に追いやられ、キャンプ地に着いてみれば、彼らだけホテルには泊まれず、現地の黒人指導者の家に落ち着く。
グラウンドにも問題は山積みだった。
ロイヤルズの監督は、会長のリッキーに向かって、「あなたは黒人(ニガー)が本当に人間だと考えているんですか?」と発言する人間であり、相手のチームの選手、ファンからはさんざんに侮辱された。
だが彼は苦しみながらも結果を出し続け、チームを優勝に導く。そして翌47年、28歳の時にドジャースに文句なく昇格し、黒人として初めてメジャーデビューをかざる。
マイナーリーグにいた時より、もっと相手チームの監督や選手、ファンからは自分の尊厳を失わせるような罵詈雑言を浴びせかけられた。「殺してやる」と書かれた手紙は、毎日何通も家に届いた。
だが彼はそんなプレッシャーの中でも、リッキーの期待にロビンソンは十分に応えた。
10年間のメジャー生活の中で、新人王、盗塁王首位打者、リーグMVPのタイトルを獲得、そしてチームを5度のワールドシリーズに導き、ドジャース初のワールドチャンピオンにも貢献した。
そんなロビンソンにチームメイトも、敬意を感じ始めるのは当然だったろう。
だが彼の最大の功績は、彼の活躍を見た他の球団が黒人選手の獲得を始めたことだった。そしてこのことにより、もはや球界から黒人選手たちを締め出すことは不可能になってしまったのだ。
今やメジャーリーグで黒人選手がいないなどとは、考えれらない時代になった。その常識も、ある男が、リッキーという支援者はいたが、グランドではった一人で世間に戦いを挑んだことから始まっている。
そしてその戦いがどんなものだったかを知るには、リッキーが初めてロビンソンに会ったときに語った、次の言葉に全て集約されていると私は思う。


「しかし、これからの戦いは、並大抵なことではないんだよ、ロビンソン君。我々には軍隊はない。それどころか、味方がないのも同然なんだ。オーナー、審判はもとより、新聞記者の中にも、我々の肩を持ってくれるものはほとんどいないだろう。多くのファンを敵に回す恐れもある。苦しい立ち場になることは間違いない。我々が勝利を得られるのは、君が偉大な野球人であると同時に、立派な紳士であるから、私がこんなことをするのだ、という点を世間に納得させ得た時だけだ」


彼の享年は53歳。その早すぎる死が、長年受けてきたプレッシャーの影響のせいだということは決して否定できない。