1995年の今日

5月2日はどうしても、このことを書こうとずっと決めていた。
今から9年前の5月2日、野茂英雄が初めてメジャーリーグのマウンドにあがった。
相手はジャイアンツで、場所は今はもう取り壊されてしまった、サンフランシスコにあるキャンドル・スティックパークだった。
それは当時の僕には全く分からないことだったけれども、今になってみるとその瞬間が、日本の野球選手にとって、メジャーリーグの門が開いた瞬間だったということがわかる。


日本人のメジャーリーガーとしては、その時からちょうど30年前に、南海ホークスから野球留学にきていたマッシー村上がいた。しかし彼は2年間を米国で過ごすと、南海に帰ってしまい、彼の後に新しい道がつくられたわけではなかった。
だがその30年後に、野茂が二人目のメジャーリーガーとして登場すると、その翌年に長谷川滋利エンゼルスで、翌々年には伊良部秀輝ヤンキースでメジャーデビューし、次々と日本人が海を渡って行くようになる。
それはジャッキー・ロビンソンの登場と活躍によって、各球団が次々と黒人選手の獲得を始めたような、一つの革命だった。そしてその日から、日本人ベースボールプレイヤーの選択肢は一つ増えることになる。
その選択肢、「メジャーリーグ行き」という道を作ったのは、まぎれもなく野茂英雄という存在だった。


野茂は後進のために道を切り開いた点でまさに先駆者だったが、その勇気には未知の物への挑戦という意味合いの他に、賛同者がほとんどいない状況からスタートせねばならないということも含まれていた。
実際に当時の野茂を取り囲んでいた状況を思い出してみると、どうしてあれほど多くのマスコミが、野茂のメジャーリーグ移籍を否定的にとらえていたのだろうと思うほどだ。好意的な意見はほとんど皆無に等しかったように思う。メジャーリーグでは彼は通用しないというのが、ほとんどのマスコミの一致した見解であったし、中には、彼は日本の野球界を裏切った人間だという極端な意見を述べる者さえあった。
その結果、米国に渡った野茂がどのような活躍をしたかは周知のとおりだ。
今、例えばメジャーリーグに挑戦する日本人選手がいたら、その結果がどうなろうとも、ほとんどのマスコミは、彼らを異国で夢を追う者といった風な好意的に報道するのが普通になっている。
松井秀喜イチローが日本を離れて、米国で活躍しても、もう彼らを裏切り者と言う人間は、マスコミからは完全に姿を消した。
そうなった理由は色々あるだろう。
だがただ一つ確かなことは、彼らが歩くその道をつくったのは、まぎれもなく野茂なのだということだ。


もちろん勇気だけでは、新しい道をつくることはできなかっただろう。
野茂自身に真の実力があり、日本人選手の力を米国で認めさせることができたから、道を作ることができたのだ。
そしてその道は、プロ野球選手に「リスク」というものを、改めて考えさせるものになった気がしてならない。
それまでほとんどのプロ野球選手が、リスクを秤にかけて、メジャーリーグよりもプロ野球に留まることを選んできた状況は否定できないだろう。
野茂よりも以前の選手でも、メジャーリーグで通用する選手はいた。たとえば全盛期の秋山ならば、とも思う。
でもそれはできなかった。リスクがあると考えられていたからだ。
でも今ではもう絶頂期を過ぎた選手も、メジャーリーグに渡る時代が来ている。その意識の扉を開けたのも、また野茂だった。


この9年間で僕が知る限り、野茂はただの一度も、かつては大半のマスコミが彼を否定したことについては、何のコメントも発していない。もちろんそんなことはありえないことだが、まるできれいさっぱり忘れたしまったかのように、ただの一度も語ってない。
でも人生の中でも、最も困難な挑戦をしようとした時に、多くの人に反対された記憶を、簡単に忘れることができるのだろうか。
だがそんなことは露ほどにも感じさせず野茂は今、社会人野球復興のために、大阪には自分の野球チームをつくり、米国では2Aのチームのオーナーとなって日本人を野球留学させ、オフに日本に帰るとキッズスクールで少年野球のコーチもしている。特に少年たちに野球を教えている時の野茂の顔は、素晴らしく柔らかい。
そして今でも野茂は、メジャーで通算117勝と、日本人選手としては断トツの成績を残し続けている。(2位は長谷川の41勝)
勇気と実力を兼ね備えたパイオニア、野茂をただこう呼ぶだけでは物足りない、それ以上の存在だと思うのはこれらの全てを思い出すときだ。


実はメジャーリーグへ挑戦を決めたときに、野茂はマスコミだけでなく両親からも反対されたそうだ。お金も名誉も日本には何でもあるじゃないか。どうしてそれを全部捨ててしまうんだ。そのようなもっともなことを言われたそうなのだ。
だがそれに対して、野茂が答えたセリフがふるっている。
「僕の人生だから」
日本にいては近鉄でしか投げられないかもしれないが、アメリカでだって野球はできるじゃないか。(野茂が当時フリーエージェントの資格を獲得するには、あと5年待たなくてはならなかった。)
その決心が、日本の何かを確実に変えた。